南壽あさ子 VANITYMIX WEB LIMITED INTERVIEW

漠然とした「平和」、決然とした想い──被爆ピアノを弾くこと。

映画『おかあさんの被爆ピアノ』の主題歌“時の環”を担当した南壽あさ子へインタビュー。2025年6月には6年ぶりのアルバム『AMULET』をリリースし、NHK『みんなのうた』への楽曲提供や、数々のCMソングを歌うなど、精力的な活動を行っている南壽。今回は『おかあさんの被爆ピアノ』の話題を中心に、彼女の「平和」への想いを訊いた。

■まずピアノ自体は何をきっかけに始めたんですか?

南壽 よくある「友達がやっていたから始めた」という動機で、5歳の頃に習い始めました。でも本当に覚えが悪くて、楽譜のドレミファソラシドが読めるようになるまでは1年くらいかかりました。ただ、母親が子供の頃、厳しくピアノを教わっていたので、自分の子供には楽しく習わせたいという想いで、私はマイペースにやらせてもらって。だから、嫌いにならずに続けてこられました。

■嫌いにならずに続けてこられた秘訣はありますか?

南壽 どうですかね……。先生が優しかったのと、適度に自分の好きな曲を課題曲と混ぜて習わせてくれていたからですかね。毎週の課題曲が3曲あるとしたら、1曲目は基礎で、2曲目は今の進捗に合わせたクラシック曲、3曲目にはゲーム音楽とか、その時に私が好きだったポップスとかをやらせてくれたのが良かったのかもしれません。

■いい先生ですね。クラシックピアノとしては、何歳くらいまで続けたんですか?

南壽 大学進学で東京に出てきたので、それまで「習う」という意味では続けていました。大学に行ってからは、環境が変わったこともあり、周囲を気にしながら電子ピアノで演奏することにちょっとフラストレーションが溜まって、人より少し遅れて軽音サークルに入ったりして、そこでキーボードを担当するようになって……という感じです。クラシックはそこまでで、本当にゆるりとやっていました。

■それは楽しそうですね。「弾き唄い」という言葉にはこだわりがあるのでしょうか?

南壽 そうですね。(表記については)デビュー当時は人と違うことや言い回しが好きだったので、そういうものもあると思うんですが、「弾き語り」と言うと、「語りかける」みたいなイメージがあるじゃないですか。それに対して私はもっと“歌って”いるかなと思ったので、「弾き唄い」にしています。

■ちょっと尖ってるところが見えますね。大学の軽音サークルではどんな音楽をやっていたんですか?

南壽 バンドといえども、今演奏しているような曲たちと同じような感じでした。在学中にも音大ピアノ科を目指していた子が、「一緒にやろう」と誘ってくれて。ほぼユニットみたいな感じで、そこにベースとドラムが入ることもありました。やる曲はほぼオリジナルで、私が作った曲と、彼女の作った曲を演奏していました。

■その頃はカバー曲もあったんですか?

南壽 自分のバンドではやっていないんですけど、サークルではMr. Childrenとか、スピッツ、ウルフルズなどをコピーしていました。

■結構軽音楽サークルとしては典型的なところをやっていたんですね。弾き歌いのスタイルはいつからやっていたのでしょうか?

南壽 もう、小学生の頃にはやっていました。中学校の時からは、みんなが合唱でやる曲の伴奏をしながら、ひとりで歌っていて。好きだったMISIAさんや、森山直太朗さんの譜面を買ってきては、それを弾いて歌うということをずっとやっていました。曲を書き始めたのは大学からです。でも当時、周りの人がみんないろいろできる中で、自分は本当に何もできないなという認識だったんですが、ピアノがあって、弾きながら歌う時が、一日を浄化するような時間になっていました。それは自分だけの時間だったので、いつしか「これが仕事になればいいな」と考え始めていました。クラシックピアノが今、役に立っているかはあんまり自分でもわかっていないんですけど、ファンの方からは、「クラシックとポップスが融合しているように感じる」と言っていただけたりして、やっぱりルーツにあるのかなと思います。

■人前で歌うことはあまり得意ではなかったと伺っているのですが、そこの壁を突破するきっかけは何かあったのでしょうか?

南壽 本当に人見知りで、本来は表に立つような人間ではないと思っているんですが、逆にそれだから伝わるものもあると思うし、何者かになりたいという欲求もありました。あと、カラオケには特定の友達とはよく行っていて、その子が「歌手になってほしい、絶対に応援するから」と言ってくれたりして。それがあって、歌手が自分だけの夢ではなくなり、喜んでほしいという想いが出てきたんだと思います。

■素敵だと思います。それで人前で歌う壁を突破していって、今に繋がっていくわけですね。

南壽 そうですね。中学生の頃から「進路はどうする?」というのはずっとあって、学校には「事務職」とか書いていたんですけど、やっぱり音楽、それも演奏する側になりたいと思っていました。

■歌詞の言葉へのこだわりが強く感じられますが、実際はいかがですか?

南壽 強いと思います。昔はレンタルで借りてきたCDの歌詞をノートに書き写して、「こういう言葉を入れていくんだ」と体で覚えたりしていました。あと、辞書を引くことがすごく好きで、その言葉の前後も見てしまう癖もありました。今も百科事典を眺めたりするんですけど、そういうのもあって、言葉にはすごく興味がありました。大学では英米文学科に進んだんですけど、そこで一番興味深かったことのひとつは、吉本ばななさんの『キッチン』の英語版を逆翻訳することでした。言葉の世界が好きで、自分で歌詞にする時も、どの「青」という漢字を使うのか、これはカタカナなのか、ひらがななのか、改行するのか、スペースを入れるのかなど、こだわっています。

■そんな中で、一番上手く書けたと思う歌詞は?

南壽 上手く書けたと言われると難しいですが、世界をちゃんと閉じ込められたと思うのは“回遊魚の原風景”という曲です。大学生の頃に書いたのですが、なぜこれが生まれたのか未だに自分でもわかっていないんです。よく「レクイエムのようだ」と言われるんですけど、そういう経験をしたから書いたわけでもなく、勝手に自分から生まれてきたものです。随分昔に書いているけれど、歳を取れば取るほど染みてくるものがあったりして。自分でライブもするからこそ、歌っていくごとに発見があるというか、感情が入りやすい曲です。抽象的だからこそ入りやすいのかなとも思いますね。

■まずタイトルがいいですよね。「回遊魚」に「原風景」が合わさるのがステキです。音源を聴くと、弦楽器、特にチェロの音がよく入りますが、お好きなのでしょうか?

南壽 曲を書いている時に、弦の音が聴こえてくることが多くて。ずっとお世話になっているアレンジャーの湯浅篤さんが、私の声質は高めなので、ヴァイオリンを入れると(音域が)当たっちゃうから、チェロを入れるとハマるということを発見しまして。それで入れてみたら、お腹にいい感じの音がしたので、今ではチェロを入れたがってしまいます。(笑)

■ピアノの高音域をよく使うのには意図があるのでしょうか?

南壽 弾き始めると、自分の身体の近くで弾いちゃうんですよ。(笑) 移動すると歌いにくくなることもあって、前奏や間奏に高音域を使うことが多いです。心理的なところも大きいと思いますね。

■歌う時に大切にされていることはありますか?

南壽 「心」に向けて歌っているということですかね。そもそも自分がひとりで歌っている時に、自分の心に向けて歌っていたというのがあるんです。例えばインストアライブで、お客さんが散らばっていろんなところにいたりしても、その光景を見て歌っているというよりは、そこで聴いているひとりひとりの心をイメージしています。そうすると、遠くの人にも伝わるものがあったり、その人の生活や、人生に重なって共鳴してもらえるものがあったりするのかなと。それを信じながらやっているような気がします。「CD音源よりもライブが感動した」と言ってもらえることがあるのですが、それはそういうことなんだろうなと。

■ご自身としてもライブがお好きなのでしょうか?

南壽 その瞬間が一番、生きている感じがしますね。生きていてよかったと思うような、自分にしかできないことをやっているような瞬間かなと思うので、そういう意味では、本当にライブは好きです。会場に向かうまでの準備とかは、ドキドキしちゃいますけど。(笑)

■それはドキドキしちゃいますよね。(笑) そして南壽さんといえば『おかあさんの被爆ピアノ』に関連する活動ですが、まずはこの映画の主題歌を作ろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

南壽 「ピアノの弾き唄い」として以前より私を知って応援してくれている方が、『おかあさんの被爆ピアノ』の映画制作に際し監督と私を引き合わせてくださいました。正直、被爆ピアノのことはそれまでは知りませんでした。広島に原爆が投下されて、爆心地に近いところにあったにもかかわらず、奇跡的に焼け残ったピアノで、まず「どんな音がするんだろう?」と思いました。そして、それを保全・維持されている矢川光則さんという方がいることを知りました。矢川さんをモデルにした映画にするということだったので、いちピアノの弾き手としてこういったお話をいただいたのも、何かの使命だと思い、実際に矢川さんのところに行ったりもして、曲を作っていきました。

■矢川さんはどんな方なのでしょうか?

南壽 ちょっとお茶目な可愛らしい方です。(笑) 広島にご自身のピアノ工房をお持ちで、本来はピアノの調律師さんなのですが、ご自身が被爆二世というところから、いろんな被爆ピアノを委ねられ、必要最小限の修理をして、なるべく当時の音色を生かしながら、管理・保全をされていらっしゃいます。「平和」ってすごく漠然としていて、その有難みはわかっているものの、日頃なにをしたらいいかは、よくわかりませんよね。でも、矢川さんをきっかけに「自分にできること」へと繋がっていって。当時被爆して生き残った矢川さんのお父さんへの想いもあり、矢川さんがここにいて、お子さんがいて、お孫さんがいて……というふうに繋がっていっている命の重みをすごく感じ取りました。そして「調律師」というところだったり、広島出身で被爆二世というところから、平和活動等を始められた使命感にも共鳴するところがあって。私もいち演奏家ですが、何かに参加できればなと思いました。矢川さんのピアノや音色に対してのこだわりや想いがあるので、そこを尊重して曲を書きたいなと考えました。

■そうなんですね。矢川さんって思っていたよりお茶目なんですね。(笑)

南壽 そうですね。映画の中では佐野史郎さんが矢川さん役を演じられていて、厳格そうに見える場面もあるんですが、実際はとてもにこやかな方です。でもその裏には、4トントラックで北海道から沖縄までご自身で平和コンサートのために巡られたり、被爆ピアノへの強い想いやピアノを運ぶ強い意志を感じます。これまで自分も「平和」に対して何かできることはないかなと、漠然と考えていたんです。ニュースを見て、遠い国の子が苦しんでいるのを見た時に、本当に自分は安全な暮らしをしているんだなって。それをテレビ越しに普通に見ている自分への違和感を感じていて、でも何をしたらいいのかよくわからなかったんですけど、映画というきっかけがあって、「これだ!」と思って楽曲を制作したり、各地での平和コンサートに参加しています。

■そういったきっかけがあったんですね。ちなみに被爆ピアノって、どれくらいの数があるのでしょうか?

南壽 矢川さんの被爆ピアノ資料館に展示している被爆ピアノは7台で、他にも空襲をうけたピアノなども展示されています。平和活動でいろんなところを巡っているのは主に2台です。ピアノの個体も様々ですし、もともと所有されていたご家庭の環境もそれぞれ。所有者の方が最近亡くなられたりもしているので、被爆ピアノが残っていくことの重みをより感じています。

■そんな被爆ピアノですが、純粋に楽器としてはどんな個性を持っているのでしょうか?

南壽 かなり響きますね。ちょっと弾いても「カーン!」って音が響くんです。強い音がしました。ガラスの破片が刺さった跡があったりするので、最初は恐る恐る触ったんですよ。本来は資料館で永久に展示されているような楽器なんです。だけど矢川さんが「ピアノは弾いてもらわなくちゃ」という想いをお持ちだから、こうして演奏することができる。だから「どうやって弾いたらいいんだろう?」と思ったのですが、いろんな演奏者さんが各地で弾かれているということもあって、とても若々しく、元気な音がします。

■演奏について、矢川さんはどんなことを仰られましたか?

南壽 私もいろんな場所を巡っていて、山形では今年も10カ所の学校に行ったり、ホールでも演奏しました。ちょうど2025年は、矢川さんの工房の30周年だったので、そのイベントにも呼んでいただいたんです。今までいろんな演奏者の方に出会ってこられた中で、私を呼んでくださったのは大変光栄でした。演奏の感想を多く語る方ではないので、そこはあまり聞いていないのですが、矢川さんは“時の環”という作品を本当に気に入ってくれていて、ピアノのことや、当時のことを考えて作ったことに共感してくださっているのかなと思います。