海蔵亮太 VANITYMIX WEB LIMITED INTERVIEW

海蔵亮太『誰そ彼』

「恋愛って人をこんな風にも変えるんだな」という一つの物語として聴いていただくのも楽しみ方の一つかも知れません。

Tik Tokで話題を集め、サブスクでも支持を集めている“サイコパスのうた”がヒット中で、2月に発売した2ndアルバム『僕が歌う理由(わけ)』に続き、海蔵亮太が新しい作品として、8月25日に3rdシングル『誰そ彼』をリリース。“誰そ彼”は、離ればなれになってさえも相手を思い続ける切ない恋心を歌った、胸を濡らすラブソング。この楽曲の魅力を中心に最新作についてじっくりと話を伺った。

■“誰そ彼”の歌詞に綴られたのが、別れた相手のことをずーっと思い続ける女々しい男心。でも、男としては「そうだよなぁ…」と強く共感しながら聴いていました。

海蔵 僕もちょっと女々しい部分がある人なので、その気持ちはよくわかります。(笑)

■自分の過去の経験と重なる面もありましたか?

海蔵 こんな丁寧な恋愛ではないですけどね。(笑) でも、「ああいう恋愛をしたら、こういう気持ちになるのもわかるなぁ…」とは感じていました。

■歌詞の中に「さよなら」と言いたかったのに勇気が持てなくて言えず、「またね」と自分の心を偽ってしまう場面も出てきますよね。

海蔵 もしかしたら来年、たとえそれが数年後だろうと、「もうワンチャンあるかな?」みたいな気持ちも抱きつつ。でも、「やっぱりもう駄目かも…」というあの心境、男としてはすごくわかります。恋愛に関しては、意外と男性の方が心弱いですから。なんか、別れるたびに寿命が縮まっていく感覚を覚えるので、それくらい男性って繊細な生き物なんですよね。“誰そ彼”は、詞・曲ともにいただいた楽曲ですけど、男性が持つすごく繊細な心模様を歌詞へ表現してくださっていたので、とても感情移入しやすくて歌いやすかったです。

■楽曲の中でも悲しみを湛えて歌っていますけど、MVでも切ない表情で歌っていますね。

海蔵 エモい表情をしていますよね。(笑) いや、エモいとよりも切ないと言った方が似合うかな。僕はいつもそうなんですけど、「この歌の主人公だったら、こういう気持ちなんだろうなぁ…」と、その歌の主人公に成りきって歌います。“誰そ彼”のMVは、西伊豆のいろんな場所を舞台に撮影したんですけど、僕は別れた彼女と巡った想い出の地を一人巡るような気持ちになって、それこそ一つ一つの場所ごとに「ここではこんな想い出を作ったなぁ…」と想いを巡らせながら撮影をしていました。

■海蔵さんの設定で語るなら、学校を舞台にした場面も出てくるので、彼女とは同級生だったという設定なんでしょうね?

海蔵 彼女は小学校の時からの同級生で、もともと親どうしが仲良くて、いつしか子供同士でも遊ぶようになり、仲の良い友達になるんだけど、気が付いたら「あれ?これって恋心?」みたいな。そういう気持ちから始まった2人の恋という設定を思い浮かべながら撮影をしていましたね。(笑)

■きっと海蔵さんは想像し始めると、妄想がどんどんと広がっていく性格ですね?

海蔵 広がりますね。最初に“誰そ彼”を歌った時から、「都会で育っていたら、こういう考えや展開にはきっとならないので、この曲に出てくる2人は都会育ちじゃない。2人は田舎景色広がる中で幼少の頃から一緒に育った関係に違いない」とか、「2人はいつしか恋人どうしになり、やがて大人になって、ともに上京するんだけど、都会に染まった彼女と、染まれない彼との間でいろいろな出来事があって、それで離ればなれになってしまった…」とか、そんな設定も僕は頭の中で思い浮かべながら歌いましたし、MVも撮影していました。

■彼女は幸せをつかみながらも、男性は未だに新しい出会いもなく、ずっと彼女の面影を引きずっている。そんな風に歌詞を読んでいて感じました。

海蔵 そう思える歌詞ですよね。「きっと、都会の男性の方が、田舎育ちの彼女からしたら魅力的だったのかな?」そんな風にも僕は想像を巡らせていました。だからこそ、心取り残された男性の想いに気持ちがキュッとなったんでしょうね。

■今回のアルバムのTYPE-Aに収録された“繋がってる…”も、別れを経験した男性の切ない心模様を綴った歌です。捉え方によっては、“誰そ彼”のその後の物語が“繋がってる…”のようにも思えてしまいます。

海蔵 繋がりを持ってこの2曲が生まれた訳ではないですけど、そういう風にも捉えられる内容ですよね。ただ、“誰そ彼”と“繋がってる…”を連なった物語として捉えたら、この男性はだいぶ報われない恋の姿として見えてしまいますけどね。(笑)

■確かに。そうですよね。

海蔵 でも、そうやって想像を巡らせながら聴くのも音楽の楽しみ方じゃないですか。僕は小説が好きでよく読むんですけど、読むたびに自分の気持ちを重ねあわせるのではなく、完全に主人公の気持ちになりきって物語を追いかけていくんですね。僕が他の方から提供していただいた楽曲を歌う時は、まさにその心境なんです。確かに僕自身の気持ちも投影して受け止めますけど、どの歌も歌の主人公に成りきって基本は歌っています。だから、余計に感情移入した姿として歌を通して見えてくるのかも知れません。

■海蔵さんは自らも作詞・作曲を行ないますが、提供曲と自作曲との違いをどのように受け止めているのでしょうか?

海蔵 他の方からいただいた楽曲の場合、「最初はこう捉えていたけど、実はこういう風にも解釈できるな…」など、自由に想像を巡らせられるのが好きなんです。自作曲の場合は、その楽曲が生まれる過程もわかっているからこそ、どうしても「こうだ」という明確なものが自分の中にあるので、それもまた「らしさ」が出るからいいことだと思います。要は、両方の表現を味わえることに面白さを覚えているんだと思います。

■海蔵さんの場合、そこへカバー曲を歌うというスタイルも加わりますよね。

海蔵 僕は名曲をずっと大切に、それこそ後世にも伝え続けていきたいなと思っています。以前とは違い、今は名曲が生まれる頻度も早くなっているので、その分消費されてしまうスパンも短くなっているじゃないですか。たとえ人の心を揺さぶった名曲でも、消費速度が早い分、「果たして5年後や10年後でも、その歌がしっかり歌い継がれているのか…?」その懸念を覚えたからこそ、自分が名曲たちを歌い、それを形にして残すことで後世にも歌い繋いでいきたい。そういう想いでカバー曲を歌い続けているんです。

■カバー曲ですが、いわゆる平成や昭和という時代の曲のみならず、令和のヒット曲などもカバーしていますよね。

海蔵 僕らが10代の頃はまさにCDが全盛の時期で、みんなが音楽番組をチェックしては、気になった楽曲のCDをこぞって買いに行って、カラオケでみんなと一緒に歌ったり、学校でも話題にしていました。だけど、サブスクなど音楽に触れる場が多様化している今は、受け止める音楽もどんどん多様化していますから。もちろん、どちらの時代にも良さはありますが、僕の青春時代は、僕らがヒット曲と捉えていた歌は、少なからず僕の前後10歳くらいの年齢の人たちもみんな歌える曲として支持されていました。でも、今は僕より数年年齢が離れただけで、ヒット曲として受け止めている歌が違っていて。僕が名曲と思って歌い継ぎたい楽曲だと思っていても、そもそも周りはその曲さえ知らなかったりもするんです…。でもそれってすごく悲しいことだし、たとえそれが近年の楽曲だろうと、やはり名曲は受け継いでいかないと消費の中へ消えてしまう。僕がいつの時代の曲でも関係なく積極的にカバー曲を歌う理由はそういうところにあるんです。

■“誰そ彼”は、そもそもエバーグリーンな要素を持った楽曲ですし、何十年も歌い継がれていく楽曲になる可能性も高いなと感じました。

海蔵 “誰そ彼”は、「樹齢何十年という樹木のような歌になればいいな」と思っています。気がついたら、リリースから40年や50年経っているんだけど、ずっと歌い継がれていて、どの時代に聴いても「あー、いいなぁ」と思っていただける。そういう楽曲になっていったら、歌い手としては本当に嬉しいですからね。